2017年2月25日土曜日

「空家活用促進隊」募集中・・・再度

1月28日にも書きましたが、締め切りが近づいてきました。
3月18日までに応募しましょう。
問い合わせ先:只見町・明和振興センター 電話:0241-86-2111

詳細は、只見町のホームページから確認できます。

・只見町地域おこし協力隊として4月から、明和振興センターで活動できます。
・住宅は町が負担。
・活動に係る車両及びパソコンは無償で貸与。
・社会保険等加入
・月額218,000円以内の給料です。

今現在該当者がいないと聞いています。
今年度は大竹さんが協力隊として1年間活動してベースが出来ました。
地元の住民組織「明和自治振興会」も応援します。

是非是非、只見町に来て下さい。
そして新しい活動を私たちと共に始めましょう。

2017年2月23日木曜日

新庁舎への想い

新庁舎のことは、その後いろいろな方が考え、この町の将来を思い描いていることと思います。
私も、多少関係を持った者として、気になり、僭越ながら。

菅家新町長が就任し、身の丈に合った新庁舎という表現がされています。

今後の進め方については、2016年9月7日のブログでの提案から私の考える基本は変わっていません。
そうした中で、この町にふさわしい新庁舎は、無駄のない、自然に優しい、町の資源(人も物も)を最大限生かした物であるべき、という気持ちを強くしています。

その意味で、現庁舎を再利用する可能性をもう一度精査し、ここ数年の新庁舎への検討内容を、既存庁舎の再生のために使い、最先端庁舎として生まれ変わらせる。
そう、古い庁舎が新しく生まれ変われるという事実が、この町に希望をもたらすのだと、最近思い始めています。
日経アーキテクチュア1月12日号の青森県庁舎の記事

青森県庁舎再生工事は2018年度末竣工予定
これは、只見線復旧、いや再生にもつながるコンセプトであり、ユネスコエコパークの町にふさわしい考え方ではないでしょうか。

すでにご存じとは思いますが、現在青森県庁舎では減築による耐震改修工事が進められています。
これからの建築の在り方の一つと評価される動きです。

2017年2月21日火曜日

昔の仕事・・・その24

大宮聖苑は、私の仕事とは言いにくいのですが、退職前に関わっていた幾つかの仕事の一つで、最後の仕事にふさわしいので「私の最後に関わった仕事は火葬場なのです」などと紹介しています。
上空北西方面から、奥が見沼田圃
1997年11月に基本計画が始まった時は大宮市との打ち合わせで始まり、2000年基本設計、2001年に実施設計、実施設計の途中で私は仕事から離れていますが、その後大宮市は合併してさいたま市となり、着工までに2年ほど間が空いたようです。
竣工は2004年5月。

設計は宮崎淳さんを中心に、広瀬隆志さん、渡辺縫さんなど若手がまとめました。
火葬場という特殊な建物で、設計から竣工まで6年半をかけていますが、良い建物になったと、竣工直後に見学させていただいて思いました。
火葬炉12基で斎場を持たない施設となっています。

設計の途中で仕事から離れましたが、チームの中では最後まで担当部長として扱って頂いていたのが嬉しかったです。

これで、昔の仕事シリーズ(建築編)は終わりにしようと思います。
このように多くの仕事に携われたこと、色々な方々と共に仕事のできたことに感謝しています。

この下の「ラベル:昔の仕事」をクリックすると、全シリーズを見ることが出来ます。

2017年2月20日月曜日

すれ違いの訪問者

こうした時期の、こうした訪問者は初めて。

この地域では、かつてはこのように、尾根を歩いて近道をして移動していたと古老から聞いていました。

子供たちも、冬季、週末の休みを自宅で過ごし、寄宿生活に戻るとき、早朝の帰路は山の尾根道だったと聞いたことがあります。

山に親しんだ人たちには、こうした行動に抵抗がないことを知りました。
山で繋がると、毘沙沢と坂田・仲村は実に近い・・・以下は佐野さんの報告書。
今回の佐野さんのルート

2017年2月19日日曜日

長い一日でした

毘沙沢での雪堀作業も一段落して・・・これで一安心。
しばし暖かい処へ移動して・・・などと予定を立てていると「明日、お邪魔しようと思っています・・・」と佐野さんから。
林道を通らずに、ショートカットして尾根づたいに雪の中を・・・さすがに山家。

しかしながら結果はすれ違いました。
同じ時間に、我々は林道を歩き、佐野さんは山の中を歩いていたようです・・・たぶん近くを。

車庫で車に乗り変え、区長に会い、郵便局に寄り、町への書類を預け、一通りの用事を済ませて田島へ向かいました。
そうなのです。
14時開演のヴァンサン・リュカ氏のフルートを聴くために。

素晴らしい演奏でした。
これがフルート・・・という音色でした。
ほのぼのとした演奏会でした。
そして、会場では多くの顔見知りにお会いもしましたね。
これが地方の心地よさ。

夕方からは、同じ「御蔵入交流館」で吹奏楽の練習。
合間に暖かく明るい図書館で雑誌など読みます。
なんと恵まれた環境・・・地方は豊なのだ。
お気に入りの練習場
夜の強行ドライブで、日にちを超えて柏にたどり着きました。
またまた長い一日でした。
でも、色々な方にお会いできますし、ちょっと遅いバレンタインなどに温めてもいただきましたし・・。

佐野さん、お会いできなくてごめんなさい。 

2017年2月17日金曜日

雪との攻防

高齢者の、年老いた除雪機による3日に及ぶ雪との攻防が終了。
朝から奮闘

家の外周長さが50m、除雪エリヤは家から平均2.5mとして125㎡、積雪の平均高さを1mで換算すると125㎥、比重はとても重いので0.8と考えると100トンとなる。

4トントラックで25杯・・・ゲゲゲ。
本当かしら???
ま、半分としても12台分。

良く働きました。
きれいに片付いた北側

水の力で助かる南側

信頼関係の確立できていない、相棒(除雪機)と共に戦うのは疲れます。
信頼関係の築けない相棒
女房と、今度の冬までに新しい機械買いましょう・・・と。

2017年2月16日木曜日

雪を掘る

昨シーズンは楽しましたから、今年のここ2週間ほどの連続降雪はしんどい。

毘沙沢はご存知のように、2.5km山の下までしか車が入りませんので、ま、雪に埋まっていても良いのですが、そうすると、外にも出られない状況で、家の中がすべてとなり、精神的につらい。
朝は寒いのですが、こんな感じで練習します
大きな民家は、雪に閉ざされても、家の中は広いので、ま、快適なのですが、それでも最近はこまめに家の周りを掘ります。

昨日、今日とで、7割がた家の周りを掘りました。
屋根から落ちた硬くて重たい雪を、家から3~4メートル外に移動する作業ですね。
下屋の屋根の雪は足元を掘ると落ちます

山との間は狭いので作業が難しい

機械がなければとてもできない雪の量ですが、除雪機なるものがあるおかげで、そうした重労働も可能です。

そうした意味では、昔のように大家族でなくても雪国の生活は可能、ということでもあります。
真剣に考えれば、寒くない、雪に強い住宅というのも可能ということです。

毘沙沢は、そうした考えなしで生活を始めましたから、相当に厳しいですが。

毘沙沢林道には、別荘が何軒かあります。
車が入らないので、冬の利用は殆ど無いようです。

新たな移住者が増えると、雪国生活ガイド本とか、相談窓口とかが今後は必要になりそうです。

2日前の別荘の状態




2017年2月13日月曜日

昔の仕事・・・その23-2

六本木三丁目計画の続きです。

プロジェクトの再開は1999年4月。
プロポ案
この時、私は設計部長となっていて直接手を動かしにくくなっていました。

新たに構成されたチームで再スタートしましたが、条件が複雑ということもあり、全体のデザインがなかなか収束しない。
そうした状況を打開するため施主サイドから再度プロポーザルの話が持ち上がりました。

2000年3月14日、大木雅彦さんをプロジェクトアーキテクトとしてまとめた案を提案しています。
私はこれで決着したい、との思いで立ち向かいましたが、結果はNOでした。

プロポーザルの大木案

その後、外装デザインを長堀嘉一さん、全体を山縣充さん、黒部三木樹さん、小坂幹さん、中村智さんなどが係わることで実施設計は2000年末にまとまっています。

延べ床62,000㎡、地下1階地上27階。
高低差の大きな不正形の敷地で、地下鉄南北線・六本木一丁目駅に接続し、業務、商業、住宅の複合、総合設計、環境アセス、地域冷暖房など複雑な条件の中でよくぞまとめたと思います。
実施案・・・実施設計概要書より

着工は2001年2月、竣工が2003年9月末。
建物名は「六本木 T‐キューブ」
私は2001年9月末で日本設計を退職しましたので、最後の仕事の1つということになります。

2017年2月12日日曜日

昔の仕事・・・その23-1

六本木三丁目計画・・・1973年竣工の「外山興和ビル」が建つ敷地の周辺地を統合しての再開発。
「外山興和ビル」は私が入社時に建設中の建物で、当時竣工から24年という未だ新しい高層事務所ビルでしたが、すでに社会の要求は、さらに大きな経済性を求めていたようです。

1997年春、M不動産から「現在、隈研吾さんに計画をお願いしているが、高層ビルへの経験から日本設計共同で・・・・」との依頼を頂いたのが始まりと記憶しています。

その後、2社で別々の案をつくり、施主となる日本サムスン(当時、三星)への提案へと話が進み、1997年8月13日、隈研吾さんの案と私達の案とが、浜町センタービル三星日本本社の役員室の大きなテーブルの上に並んだのでした。
レポートで使ったCG

綺麗な模型も作りました・・・ソウルに置いてきた?
隈さんが説明し、その後私が説明したのだと思います。
当時は今ほどではないにしろ、隈さんはすでに著名な建築家でしたので、その時の様子は今も懐かしく思い出します。

その後、ソウルのサムスン本社でのプレゼン、この時は大井さんが出かけました。
そして、結果は日本設計で進めることになったのですが、韓国の経済事情でその後一時休止となり、再開は1999年4月でした。

隈さんの案は手堅いものでしたが、私たちの案がよりサムスン好みであったのだろうと想像してます。
酒井孝博さんとの共同でした。
私の手書きのスケッチ

2017年2月9日木曜日

昔の仕事・・・その22

霞が関ビルは、日本における最初の超高層ビルとして1968年に竣工しました。
その後の社会の変化は、貸しビルへの性能要求を年々高め、霞が関ビルも竣工20年を迎えるころから、大規模リニューアルをスタートしています。

最初は、オフィス内部の安全と建築・設備の更新、省エネ、最先端オフィスへの再生でしたが、この仕事は、先輩の石川政夫さんが手がけています。
1987年のレポートから

その後、私は、1996年から2001年にかけて、外装更新と底層部のインテリアの改装などを担当しました。

こうした大規模建物、それも貸しビルの改装の仕事は、建物を使用いながらの工事ですから、施工者と施主の役割が重要で、私たちはデザインへ提案などが主な仕事であったように記憶しています。

外装改修はアルミパネルの電解発色が劣化ていて、塗装で補う方法をとりましたが、塗装の仕様、施工者(ペンキ屋さん)の選定、色の確定などで慎重を要しました。
外装改修後・新橋駅方向から
ペンキの色は、外壁に部分的に色を塗り、関係者に見ていただいて決めるのですが、関係者がお偉い方々ばかりで、当事者としては大変神経を使った覚えがあります。
設計終了時の完成パース・・・ほぼこの通り改装されています
ロビー周りのデザインは、インテリア設計部の佐藤正利さん、竹田竜介さんがまとめています。
この時期、霞が関ビルへはよく通いました。

2017年2月8日水曜日

結婚から44年

結婚から44年が経とうとしています。

食事でもしようかと、銀座なんぞに出かけました。
初めてのデートが、銀座の山野楽器・・・高校の楽器の修理に2人で出かけたのでした。
その時からは52年が経過したことになります。

イタリヤ料理なんぞを食いて、昼間からほろ酔い機嫌で銀座通りを歩きましたが、外国の方が沢山いますね。
大型の観光バスが狭い裏通りを窮屈そうに走っていました。

そんな銀座は、実はそれほど変化していないように見えますが・・・いやいや変わりました。
建物も新しくなって、海外の高級ブランド店があちらこちらに・・・。
もう少しすると、GSIXがオープン。
開店待ちのGSIX
私たちは、何やら銀座が好きなのです。

2017年2月5日日曜日

昔の仕事・・・その21

私が、毘沙沢に初めて足を踏み入れたころの仕事には、同潤会・江戸川アパートの再開発、芝三丁目計画、大川端の超高層住宅棟、H製作所のゲストハウス、そして、今回紹介のイトーヨーカ堂幕張店があります。

イトーヨーカ堂幕張店は、1995年5月に設計がスタートし、1998年10月竣工、
その内、工事期間は14か月でしたから、設計に約2年を要しています。

延べ床面積が52,200平米と規模が大きく、店作りとの関係、立体駐車場の作り方など、商業建築の決断の難しさが設計者にもシビヤーな条件となり、設計終了までに時間が掛かったと記憶しています。

コストの厳しさは尋常ではなく、設計者としてはスマートな解決を信じて立ち向かうのですが、はかなく敗れ去る・・・ウルトラCなど無い、そんな中でも日本の施工者は知恵を出して解決するのですからすごいです。

S造に外壁ALCが結論で、上部に2層の駐車場があるのでアスファルト防水も省き店舗の直上のスラブ面に塗膜防水。スラブは合成スラブ。鉄骨量は800㎏/㎡以下。地下室はもちろん無しで、配管ピットの無いエリアは土間スラブ。駐車場はFR鋼に錆止め兼用塗料1回塗り。天井高は確保しつつも、階高ぎりぎりが美徳。

ショッピングセンターとはそうした商売のための器なのです。
それでも、担当したからには最善を尽くすのが建築家の仕事でした。

2017年2月3日金曜日

訛り懐かし・・・

昨日久々に東京駅に立ちました。
夕方の東京駅は、相変わらず旅行者やら通勤客などで賑わっていますね。

駅構内にはたくさんのお店が出来て、大丸のデパ地下なども入り込んで、まるで市場の様相・・・・ボリュームに圧倒されます。
そんな中「山形新幹線は、大雪のため現在運行を見合わせて・・・」などとアナウンスが。
脳裏に、大雪、吹雪いている奥会津の集落の映像が・・・故郷の訛り懐かし停車場に・・・の心境。
東京駅八重洲口

東京駅周辺は変わりました。
この15年で知らない超高層が沢山できた。
子供の頃父によく連れてこられた、国際観光会館の地下の映画館はどのあたりでしたか?

大学以来の友、竹内との飲み会。
建築の話題の延長で、文明、文化、地方の現状、過疎化と衰退の行く末・・・などとりとめもなく。
少々飲みすぎました。

この時期、奥会津は東京から遠い。
毘沙沢は・・・ああ、遠すぎる。